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両漢交替期数据庫

両漢交替期に関するデータベースです。

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2016/08/28(Sun)17:35

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呂母

2007/08/02(Thu)17:43

 生没年不詳(?~AD22ごろ)

 姓名は不詳。琅邪郡の海曲県の人。
 天鳳元年(AD14)、呂母の息子の呂育は游徼であったが微罪で県宰に処刑された。呂母は県宰を恨み、ひそかに賓客を集めて仇を討とうと図った。呂母の家はもともと富豪であり家産は数百万に及んだので酒を醸造して刀剣と衣服を買った。少年たちの酒を売りに来るものは掛け買いにして酒を与え、貧しそうに見えるものには衣服を貸し与えて多少の事は不問にした。数年が過ぎた。
 天鳳四年(AD17)、呂母の財産がようやく尽きようとしたころ、少年たちはそろって借りた物を返そうとした。呂母は
「君たちを厚遇したのは利益を上げようとしたからじゃない。県宰が不道なせいで私の息子が殺されたから仇を取ろうと思っていただけ。君たちはどうかあれのことを憐れんでやってちょうだい!」
と涙を流した。少年たちは呂母の意を壮烈だと思い、またもともと恩を受けていたので、誰もが許諾した。賓客の徐次子は猛虎と号した。ついに百数十人を集結して呂母と海中に入り、亡命者を招いて数に合わせ、数千に至った。呂母は将軍を自称し、兵を率いて帰還して海曲県を攻城し、県宰と掾吏を捕縛した。そこで呂母は
「お前たちに罪は無い。ただ県長に仇を報いたいだけさ」
と掾吏を開放した。彼らは叩頭して県宰の助命を嘆願した。呂母は
「私の息子は微罪を犯したけど処刑されるほどじゃなかったのに、この県宰に殺された。人を殺せば処刑されるのが当たり前なのに、何を請願するってのさ?」
と言って手ずから県宰を斬り、その首を息子の塚に祭って再び海中に帰っていった。その数は次第に膨れ上がり、後には万を以て数えられた。
 王莽はただちに呂母たちを赦免した。彼女の率いる群集はいったん離散したがすぐに集合した。
 地皇三年(AD22)ごろに没し、その群衆は赤眉軍や青犢軍や銅馬軍に編入された。


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No.50|群雄Comment(0)Trackback(0)

劉縯

2007/08/01(Wed)20:15

 ?~更始元年(?~AD23)

 姓は劉、名は縯、字は伯升(司馬彪『続漢書』、袁宏『後漢紀』では伯昇)。南陽郡の蔡陽県の舂陵郷の人。謚号は武。父は劉欽、母は樊嫺都、姉は劉黄と劉元、弟は劉仲と劉秀、妹は劉伯姫。
 性は剛毅、慷慨にして大節あり。任侠を好み、生業に就かず家産を傾けて豪傑と交誼を結んだ。
 かつて宗族の劉嘉と共に長安に留学した。李通の同母弟の申屠臣が医術に通じていたので劉縯は彼を招聘したが、扱い辛かったので彼を殺した。劉縯の賓客が他人を脅迫したので、家族と共に新野の鄧晨の家に官吏の追及を避けた。
 地皇三年(AD22)十月都試の日、鄧晨を新野で、李通と李軼と劉秀を宛で蜂起させた。自らは舂陵で蜂起した。舂陵の子弟を発すると七八千人に及んだので部ごとに賓客を分署し、柱天都部を自称した。劉賜を使者として新市兵の王匡や平林兵の陳牧らを誘って軍を合流させた。長聚と唐子郷を屠城し、湖陽の県尉を殺し、進軍して棘陽を抜城した。
 宛を攻城しようとして小長安に進軍し、前隊大夫の甄阜と属正の梁丘賜に大敗した。姉の劉元とその三人の娘、弟の劉仲、宗族数十人が戦死した。軍を後退させて棘陽に帰還し、防備を固めた。甄阜と梁丘賜は勝利に乗じて輜重を藍郷に留め、精兵十万を率いて黄淳水を南渡し、沘水に臨むと両川の間を阻んで陣営を築いた。甄阜と梁丘賜は後方の橋を破壊して帰還する意思がないことを内外に示した。
 地皇四年(AD23)、劉縯は李通と劉秀を引き連れて宜秋の下江兵を訪れ、王常と交誼を結んだ。下江兵五千余は漢軍、新市兵、平林兵と合流した。
 劉縯は軍士と大いに饗宴して盟約を交わした。兵卒を休ませること三日、総軍を六部に再編成した。軍勢を潜行させて夜に出発させ、藍郷を襲撃して奪取した。その輜重をことごとく獲得した。翌朝、漢軍は西南から甄阜を攻撃し、下江兵は東南から梁丘賜を攻撃した。食事時に至ると梁丘賜の陣は崩壊し、その様子を望見していた甄阜の軍も散走した。漢軍は敗走する敵兵を急追して黄淳水で卻迫し、斬首と溺死者は万余に上った。ついに甄阜と梁丘賜を斬った。
 納言大将軍の厳尤と秩宗大将軍の陳茂は甄阜と梁丘賜が敗れたと知り、疾馳して宛に拠ろうとした。そこで伯升は糧秣を焼き、釜甑を砕いて軍鼓を打ち鳴らしながら先行して厳尤と陳茂と育陽の下で大破した。首級二千余を斬獲し、厳尤と陳茂は汝南に逃れた。劉縯はついに進軍して宛を包囲し、柱天大将軍を自称した。王莽は上公の爵位、一万戸の食邑、五千万銭の宝貨を懸賞金として劉縯の首に懸けた。また長安の官署や各地の郷亭に劉縯の肖像画を描かせ、毎朝それを射させた。
 甄阜と梁丘賜を敗ってから漢軍に十余万人が降伏してきたが、統一されていなかったので諸将は天子を立てることにした。南陽の英雄豪傑と下江兵の王常は劉縯を推したが、新市兵と平林兵の領袖たちは劉玄を推した。
 更始元年(AD23)二月朔、劉玄は帝位に即いた。劉縯は大司徒に任命され、漢信侯に封ぜられた。
 平林兵の後部が新野を攻城したが、降伏させられなかった。県宰の潘臨が城壁に登って「司徒劉公(劉縯)の一信を得ることを願う」と言った。劉縯の軍勢が至ると、城門を開いて降伏した。
 五月、劉縯は宛を抜城した。
 劉縯の部将の劉稷はしばしば陣営を陥落させ包囲を潰滅させ、三軍に冠する武功を掲げた。かつて魯陽を攻城していたとき、更始帝が帝位に即いたと聞いて「そもそも挙兵して大事を図ったのは伯升兄弟だ。更始がいったい何をしたというのだ?」と憤怒した。
 六月、劉稷は宛に来詣した。更始帝とその臣下は劉稷に抗威将軍を授けようとしたが拝礼を肯じなかった。更始帝は数千の兵を列ねると劉稷を収監し、彼を誅殺しようとした。劉縯が抗命したので李軼と朱鮪は更始帝に劉縯も一緒に捕縛するように勧め、即日に劉縯と劉稷は誅殺された。


No.49|群雄Comment(0)Trackback(0)

王鳳

2007/07/30(Mon)19:50

 生没年不詳(?~?)

 姓は王、名は鳳。江夏郡の新市県の人。
 その前半生は同郷の王匡に同じい。
 地皇三年(AD22)、劉縯と結んで長聚を撃破した。
 更始元年(AD23)、成国上公に封ぜられた。王常や李軼や劉秀を率いて潁川郡に進軍し、昆陽と定陵と郾を降伏させた。王邑と王尋の軍四十二万を前に、昆陽に篭城した。
 更始二年(AD24)、宜城王に封ぜられた。


No.48|群雄Comment(0)Trackback(0)

王匡

2007/07/30(Mon)19:49

 ?~更始三年(?~AD25)

 姓は王、名は匡。江夏郡の新市県の人。
 王莽の末年、南方は飢饉が起こり、人々は野沢に群れ入り、鳧茈(クログワイ)を掘って食べ、お互いに奪い争った。王匡は王鳳と共に訴訟を平げ理めていたが、群衆に推されて渠帥となった。もと数百人であったが亡命者の馬武、王常、成丹らが従った。緑林山に拠って県城から離れた郷や聚を攻撃し、数ヶ月にして七八千人、後に万余に至った。
 地皇二年(AD21)、荊州の牧が奔命二万を率いて緑林を攻撃し、王匡たちはそれぞれ手勢を率いて雲杜で迎撃した。州牧の軍を大破し、数千人を殺し、輜重を全て獲得し、ついに竟陵を抜城した。反転して雲杜と安陸を攻撃し、多くの婦女を略奪し、緑林の山中に帰還した。その数は五万余に膨れ上がり、もはや州郡は制御することはできなかった。
 地皇三年(AD22)、疫病が大流行して半数が病死したので緑林軍は分散して逃げ去った。王匡や王鳳や馬武たちやその部下の朱鮪や張卬たちは北方の南陽に侵入し、新市兵と号した。誰もが将軍を自称した。七月に王匡たちは進軍して隨を攻城したが、降伏させられなかった。平林の人の陳牧と廖湛は再び千余人を集めて、平林兵と号し、新市兵に呼応した。
 地皇四年(AD23)、劉玄は帝位に即位した。王匡は定国上公に任命された。八月、更始帝の王匡は王莽の王匡の守る洛陽を攻城した。九月、洛陽を抜城した。
 更始二年(AD24)、比陽王に封ぜられた。張卬とともに三輔で横暴を働いた。
 更始三年(AD25)、成丹や劉均とともに河東郡で十余万の軍勢を合わせて鄧禹を共撃し、樊崇を殺したが次の会戦で大敗し、兵を捨てて逃走した。新豊に駐屯して赤眉軍を抗拒した。
 後に更始帝に疑われ、長安に入って一月余り戦ったが敗れて逃走した。高陵にまで進軍していた赤眉軍に投降し、ともに長安を攻城した。後に鄧禹に降伏し、逃走しようとして宗広に斬られた。


No.47|群雄Comment(0)Trackback(0)

馬援

2007/07/05(Thu)23:23

 永始四年~建武二十五年(BC13~AD49)

 姓は馬、諱は援、字は文淵。右扶風の茂陵県の人。馬皇后の父。


No.46|列伝Comment(0)Trackback(0)

竇融

2007/07/05(Thu)23:20

 永始元年~永平五年(BC16~AD62)

 姓は竇、諱は融、字は周公。右扶風の平陵県の人。王邑の義兄。


No.45|列伝Comment(0)Trackback(0)

来歙

2007/07/05(Thu)23:10

 ?~建武二年(?~AD26)

 姓は来、諱は歙、字は君叔。南陽郡の新野県の人。光武帝の母方の従兄弟。劉嘉の義兄。


No.44|列伝Comment(0)Trackback(0)

鄧晨

2007/07/05(Thu)23:08

 ?~建武二十五年(?~AD49)

 姓は鄧、諱は晨、字は偉卿。南陽郡の新野県の人。劉元の夫。


No.43|列伝Comment(0)Trackback(0)

王常

2007/07/05(Thu)23:07

 ?~建武十二年(?~AD36)

 姓は王、諱は常、字は顔卿。潁川郡の舞陽県の人。


No.42|列伝Comment(0)Trackback(0)

李通

2007/07/05(Thu)23:03

 ?~建武十八年(?~AD42)

 姓は李、諱は通、字は次元。南陽郡の宛県の人。劉伯姫の夫。李軼と李松の従兄弟。


No.41|列伝Comment(0)Trackback(0)