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両漢交替期数据庫

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劉縯

2007/08/01(Wed)20:15

 ?~更始元年(?~AD23)

 姓は劉、名は縯、字は伯升(司馬彪『続漢書』、袁宏『後漢紀』では伯昇)。南陽郡の蔡陽県の舂陵郷の人。謚号は武。父は劉欽、母は樊嫺都、姉は劉黄と劉元、弟は劉仲と劉秀、妹は劉伯姫。
 性は剛毅、慷慨にして大節あり。任侠を好み、生業に就かず家産を傾けて豪傑と交誼を結んだ。
 かつて宗族の劉嘉と共に長安に留学した。李通の同母弟の申屠臣が医術に通じていたので劉縯は彼を招聘したが、扱い辛かったので彼を殺した。劉縯の賓客が他人を脅迫したので、家族と共に新野の鄧晨の家に官吏の追及を避けた。
 地皇三年(AD22)十月都試の日、鄧晨を新野で、李通と李軼と劉秀を宛で蜂起させた。自らは舂陵で蜂起した。舂陵の子弟を発すると七八千人に及んだので部ごとに賓客を分署し、柱天都部を自称した。劉賜を使者として新市兵の王匡や平林兵の陳牧らを誘って軍を合流させた。長聚と唐子郷を屠城し、湖陽の県尉を殺し、進軍して棘陽を抜城した。
 宛を攻城しようとして小長安に進軍し、前隊大夫の甄阜と属正の梁丘賜に大敗した。姉の劉元とその三人の娘、弟の劉仲、宗族数十人が戦死した。軍を後退させて棘陽に帰還し、防備を固めた。甄阜と梁丘賜は勝利に乗じて輜重を藍郷に留め、精兵十万を率いて黄淳水を南渡し、沘水に臨むと両川の間を阻んで陣営を築いた。甄阜と梁丘賜は後方の橋を破壊して帰還する意思がないことを内外に示した。
 地皇四年(AD23)、劉縯は李通と劉秀を引き連れて宜秋の下江兵を訪れ、王常と交誼を結んだ。下江兵五千余は漢軍、新市兵、平林兵と合流した。
 劉縯は軍士と大いに饗宴して盟約を交わした。兵卒を休ませること三日、総軍を六部に再編成した。軍勢を潜行させて夜に出発させ、藍郷を襲撃して奪取した。その輜重をことごとく獲得した。翌朝、漢軍は西南から甄阜を攻撃し、下江兵は東南から梁丘賜を攻撃した。食事時に至ると梁丘賜の陣は崩壊し、その様子を望見していた甄阜の軍も散走した。漢軍は敗走する敵兵を急追して黄淳水で卻迫し、斬首と溺死者は万余に上った。ついに甄阜と梁丘賜を斬った。
 納言大将軍の厳尤と秩宗大将軍の陳茂は甄阜と梁丘賜が敗れたと知り、疾馳して宛に拠ろうとした。そこで伯升は糧秣を焼き、釜甑を砕いて軍鼓を打ち鳴らしながら先行して厳尤と陳茂と育陽の下で大破した。首級二千余を斬獲し、厳尤と陳茂は汝南に逃れた。劉縯はついに進軍して宛を包囲し、柱天大将軍を自称した。王莽は上公の爵位、一万戸の食邑、五千万銭の宝貨を懸賞金として劉縯の首に懸けた。また長安の官署や各地の郷亭に劉縯の肖像画を描かせ、毎朝それを射させた。
 甄阜と梁丘賜を敗ってから漢軍に十余万人が降伏してきたが、統一されていなかったので諸将は天子を立てることにした。南陽の英雄豪傑と下江兵の王常は劉縯を推したが、新市兵と平林兵の領袖たちは劉玄を推した。
 更始元年(AD23)二月朔、劉玄は帝位に即いた。劉縯は大司徒に任命され、漢信侯に封ぜられた。
 平林兵の後部が新野を攻城したが、降伏させられなかった。県宰の潘臨が城壁に登って「司徒劉公(劉縯)の一信を得ることを願う」と言った。劉縯の軍勢が至ると、城門を開いて降伏した。
 五月、劉縯は宛を抜城した。
 劉縯の部将の劉稷はしばしば陣営を陥落させ包囲を潰滅させ、三軍に冠する武功を掲げた。かつて魯陽を攻城していたとき、更始帝が帝位に即いたと聞いて「そもそも挙兵して大事を図ったのは伯升兄弟だ。更始がいったい何をしたというのだ?」と憤怒した。
 六月、劉稷は宛に来詣した。更始帝とその臣下は劉稷に抗威将軍を授けようとしたが拝礼を肯じなかった。更始帝は数千の兵を列ねると劉稷を収監し、彼を誅殺しようとした。劉縯が抗命したので李軼と朱鮪は更始帝に劉縯も一緒に捕縛するように勧め、即日に劉縯と劉稷は誅殺された。


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