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両漢交替期数据庫

両漢交替期に関するデータベースです。

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2017/09/26(Tue)05:29

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呂母

2007/08/02(Thu)17:43

 生没年不詳(?~AD22ごろ)

 姓名は不詳。琅邪郡の海曲県の人。
 天鳳元年(AD14)、呂母の息子の呂育は游徼であったが微罪で県宰に処刑された。呂母は県宰を恨み、ひそかに賓客を集めて仇を討とうと図った。呂母の家はもともと富豪であり家産は数百万に及んだので酒を醸造して刀剣と衣服を買った。少年たちの酒を売りに来るものは掛け買いにして酒を与え、貧しそうに見えるものには衣服を貸し与えて多少の事は不問にした。数年が過ぎた。
 天鳳四年(AD17)、呂母の財産がようやく尽きようとしたころ、少年たちはそろって借りた物を返そうとした。呂母は
「君たちを厚遇したのは利益を上げようとしたからじゃない。県宰が不道なせいで私の息子が殺されたから仇を取ろうと思っていただけ。君たちはどうかあれのことを憐れんでやってちょうだい!」
と涙を流した。少年たちは呂母の意を壮烈だと思い、またもともと恩を受けていたので、誰もが許諾した。賓客の徐次子は猛虎と号した。ついに百数十人を集結して呂母と海中に入り、亡命者を招いて数に合わせ、数千に至った。呂母は将軍を自称し、兵を率いて帰還して海曲県を攻城し、県宰と掾吏を捕縛した。そこで呂母は
「お前たちに罪は無い。ただ県長に仇を報いたいだけさ」
と掾吏を開放した。彼らは叩頭して県宰の助命を嘆願した。呂母は
「私の息子は微罪を犯したけど処刑されるほどじゃなかったのに、この県宰に殺された。人を殺せば処刑されるのが当たり前なのに、何を請願するってのさ?」
と言って手ずから県宰を斬り、その首を息子の塚に祭って再び海中に帰っていった。その数は次第に膨れ上がり、後には万を以て数えられた。
 王莽はただちに呂母たちを赦免した。彼女の率いる群集はいったん離散したがすぐに集合した。
 地皇三年(AD22)ごろに没し、その群衆は赤眉軍や青犢軍や銅馬軍に編入された。


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