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両漢交替期数据庫

両漢交替期に関するデータベースです。

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2017/09/26(Tue)05:30

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王匡

2007/07/30(Mon)19:49

 ?~更始三年(?~AD25)

 姓は王、名は匡。江夏郡の新市県の人。
 王莽の末年、南方は飢饉が起こり、人々は野沢に群れ入り、鳧茈(クログワイ)を掘って食べ、お互いに奪い争った。王匡は王鳳と共に訴訟を平げ理めていたが、群衆に推されて渠帥となった。もと数百人であったが亡命者の馬武、王常、成丹らが従った。緑林山に拠って県城から離れた郷や聚を攻撃し、数ヶ月にして七八千人、後に万余に至った。
 地皇二年(AD21)、荊州の牧が奔命二万を率いて緑林を攻撃し、王匡たちはそれぞれ手勢を率いて雲杜で迎撃した。州牧の軍を大破し、数千人を殺し、輜重を全て獲得し、ついに竟陵を抜城した。反転して雲杜と安陸を攻撃し、多くの婦女を略奪し、緑林の山中に帰還した。その数は五万余に膨れ上がり、もはや州郡は制御することはできなかった。
 地皇三年(AD22)、疫病が大流行して半数が病死したので緑林軍は分散して逃げ去った。王匡や王鳳や馬武たちやその部下の朱鮪や張卬たちは北方の南陽に侵入し、新市兵と号した。誰もが将軍を自称した。七月に王匡たちは進軍して隨を攻城したが、降伏させられなかった。平林の人の陳牧と廖湛は再び千余人を集めて、平林兵と号し、新市兵に呼応した。
 地皇四年(AD23)、劉玄は帝位に即位した。王匡は定国上公に任命された。八月、更始帝の王匡は王莽の王匡の守る洛陽を攻城した。九月、洛陽を抜城した。
 更始二年(AD24)、比陽王に封ぜられた。張卬とともに三輔で横暴を働いた。
 更始三年(AD25)、成丹や劉均とともに河東郡で十余万の軍勢を合わせて鄧禹を共撃し、樊崇を殺したが次の会戦で大敗し、兵を捨てて逃走した。新豊に駐屯して赤眉軍を抗拒した。
 後に更始帝に疑われ、長安に入って一月余り戦ったが敗れて逃走した。高陵にまで進軍していた赤眉軍に投降し、ともに長安を攻城した。後に鄧禹に降伏し、逃走しようとして宗広に斬られた。


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